原爆についてのTV番組というと、被爆者の惨状を語り、不戦の誓いを結論とするのもが多い。
今年のNHKの番組も長崎の地下工場での被爆者の体験と残留放射能の問題を取り上げたものだった。
しかし、先に原爆をめぐる問題の整理であげたように、日本でも原爆開発を進めていたことを私は今年知った。
今回はこのこと取り上げたと思う
1 2つの原爆開発計画
日本にはかつて2つの原爆開発計画があった。1つは陸軍が主導し、理化学研究所を中心として「ニ号研究」。
もうひとつが海軍が主導し京都帝国大学が研究した「F研究」である。
二号研究は、1940年5月、陸軍航空技術研究 安田武雄中将が、部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾はつくれるか」を調査するよう指示したことに始まった。調査の結果「原爆製造は可能」との報告を受け、1941年に正式に理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼し、仁科 芳雄博士を中心とするチームが研究に着手し、六かウランの生成と熱拡散法によるウランの濃縮を進めるところまで研究を進めた。
しかし、ウラン濃縮の実験には失敗、また1945年5月15日の空襲で実験設備も失い、6月に研究は正式に中止となった
これとは別に海軍も京都大学のの荒勝文策博士に研究を依頼、こちらは遠心分離法によるウランの濃縮で研究をすすめたが、遠心分離機の設計図を作るところまで、1945年7月にこちらも研究中止となった
つまり、両研究も基礎研究の段階までで、兵器として実用化できる段階には至らなかった。
研究と平行しウランの調達も進めたが、まだ人形峠のウラン鉱は発見されてなく、福島県石川郡石川町では勤労動員により閃ウラン鉱、燐灰ウラン石、サマルスキー石など採掘されたが量が少なく、ナチスドイツからの提供を求めるも途中で連合軍に阻止され、中国の闇市場からの入手するなど手を尽くしたが十分な量の確保にはいたらなかった。
つまり、仮に研究が順調であっても生産には至らなかった
なぜ、成功しなかったかというと研究者のレベルといよりどれだけの人員を投入できたであることがわかる
二号研究
予算 286万円
研究者 20名
マンハッタン計画
予算 20億ドル
動員数 12万5000人
もちろん条件が違うとはいえ、国家レベルでの取り組みと、陸軍と海軍でべつべつに行うなど個人の努力の域をでない日本とは比較にならない。たぶんドイツも同様の理由により成功しなったのだろう。
2 原爆開発と被害からなにを学ぶか
日本の原爆開発の事実からわかることは以下のことだ
(1)科学者のレベルでは原爆の原理は広く知られた事実だった
(2)日本の軍部でも「原子爆弾」についての認識があり兵器として期待をしていた
(3)具体的な計画は進められていたが、成功に至らなかった
つまり日本軍関係者にとって広島の原爆投下はまったく未知ものでなく、どちらが先に行うかという問題ということだ。そして、どちらが先になるかは条件次第であり、仮に日本やドイツが先に原爆の開発に成功していれば実戦で使用したことだろう。そして、日本がアメリカに一矢報いることができたとしても、アメリカの反撃が始まり核戦争になっていたかもしれない。
それは、日米どちらの科学者も原爆がなにをもたらすのかだれも知らなかったということだ。
広島への原爆投下を知った仁科博士は「われわれは腹を切るときがきた」と書き残したが、その後広島を訪れ「どうしても戦争をとめなければ」と雑誌に書き、研究者の責任と平和への思いを感じている。それはマンハッタン計画で最初の原爆実験を見たオッペンハイマーが後に、水爆開発に反対したのと同じように、自らが理論上で追求したことが国の勝利のためとはいえ、無差別の大量破壊に用いられることの意味を想像できないということなのだろう。
原爆を語るとき常にその悲惨さを主張し、罪のない一般市民を無差別に殺したことの責任をアメリカに問うことで、同じく原爆を開発しようとした日本を無視することは片手落ちではないだろうか。そして、同じことが、戦争での毒ガスの使用や、航空機による空爆について言えないだろうか
日米で違いがあるとすれば、アメリカは一般市民への原爆投下を受けず、毒ガスも浴びず、自国の都市への空爆も経験していないく、日本は、広島・長崎の原爆と、中国での毒ガス使用、アメリカによる都市への絨毯爆撃をうけ、中国の都市への空爆を行った点だ。
これは、第二次世界大戦が国家の総力戦であったことがいかに悲惨な結果を生むかをどれだけ、身をもって経験したかの差ということになる。
その経験の差が、1945年以降のアメリカの原爆開発とベトナムでの空爆と化学兵器の使用への反省なく拡大していく結果となったのではないだろうか。
参考資料
Wikipedia 日本の原子爆弾開発
テレビ朝日 「ザ・スクープスペシャル」

今年のNHKの番組も長崎の地下工場での被爆者の体験と残留放射能の問題を取り上げたものだった。
しかし、先に原爆をめぐる問題の整理であげたように、日本でも原爆開発を進めていたことを私は今年知った。
今回はこのこと取り上げたと思う
1 2つの原爆開発計画
日本にはかつて2つの原爆開発計画があった。1つは陸軍が主導し、理化学研究所を中心として「ニ号研究」。
もうひとつが海軍が主導し京都帝国大学が研究した「F研究」である。
二号研究は、1940年5月、陸軍航空技術研究 安田武雄中将が、部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾はつくれるか」を調査するよう指示したことに始まった。調査の結果「原爆製造は可能」との報告を受け、1941年に正式に理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼し、仁科 芳雄博士を中心とするチームが研究に着手し、六かウランの生成と熱拡散法によるウランの濃縮を進めるところまで研究を進めた。
しかし、ウラン濃縮の実験には失敗、また1945年5月15日の空襲で実験設備も失い、6月に研究は正式に中止となった
これとは別に海軍も京都大学のの荒勝文策博士に研究を依頼、こちらは遠心分離法によるウランの濃縮で研究をすすめたが、遠心分離機の設計図を作るところまで、1945年7月にこちらも研究中止となった
つまり、両研究も基礎研究の段階までで、兵器として実用化できる段階には至らなかった。
研究と平行しウランの調達も進めたが、まだ人形峠のウラン鉱は発見されてなく、福島県石川郡石川町では勤労動員により閃ウラン鉱、燐灰ウラン石、サマルスキー石など採掘されたが量が少なく、ナチスドイツからの提供を求めるも途中で連合軍に阻止され、中国の闇市場からの入手するなど手を尽くしたが十分な量の確保にはいたらなかった。
つまり、仮に研究が順調であっても生産には至らなかった
なぜ、成功しなかったかというと研究者のレベルといよりどれだけの人員を投入できたであることがわかる
二号研究
予算 286万円
研究者 20名
マンハッタン計画
予算 20億ドル
動員数 12万5000人
もちろん条件が違うとはいえ、国家レベルでの取り組みと、陸軍と海軍でべつべつに行うなど個人の努力の域をでない日本とは比較にならない。たぶんドイツも同様の理由により成功しなったのだろう。
2 原爆開発と被害からなにを学ぶか
日本の原爆開発の事実からわかることは以下のことだ
(1)科学者のレベルでは原爆の原理は広く知られた事実だった
(2)日本の軍部でも「原子爆弾」についての認識があり兵器として期待をしていた
(3)具体的な計画は進められていたが、成功に至らなかった
つまり日本軍関係者にとって広島の原爆投下はまったく未知ものでなく、どちらが先に行うかという問題ということだ。そして、どちらが先になるかは条件次第であり、仮に日本やドイツが先に原爆の開発に成功していれば実戦で使用したことだろう。そして、日本がアメリカに一矢報いることができたとしても、アメリカの反撃が始まり核戦争になっていたかもしれない。
それは、日米どちらの科学者も原爆がなにをもたらすのかだれも知らなかったということだ。
広島への原爆投下を知った仁科博士は「われわれは腹を切るときがきた」と書き残したが、その後広島を訪れ「どうしても戦争をとめなければ」と雑誌に書き、研究者の責任と平和への思いを感じている。それはマンハッタン計画で最初の原爆実験を見たオッペンハイマーが後に、水爆開発に反対したのと同じように、自らが理論上で追求したことが国の勝利のためとはいえ、無差別の大量破壊に用いられることの意味を想像できないということなのだろう。
原爆を語るとき常にその悲惨さを主張し、罪のない一般市民を無差別に殺したことの責任をアメリカに問うことで、同じく原爆を開発しようとした日本を無視することは片手落ちではないだろうか。そして、同じことが、戦争での毒ガスの使用や、航空機による空爆について言えないだろうか
日米で違いがあるとすれば、アメリカは一般市民への原爆投下を受けず、毒ガスも浴びず、自国の都市への空爆も経験していないく、日本は、広島・長崎の原爆と、中国での毒ガス使用、アメリカによる都市への絨毯爆撃をうけ、中国の都市への空爆を行った点だ。
これは、第二次世界大戦が国家の総力戦であったことがいかに悲惨な結果を生むかをどれだけ、身をもって経験したかの差ということになる。
その経験の差が、1945年以降のアメリカの原爆開発とベトナムでの空爆と化学兵器の使用への反省なく拡大していく結果となったのではないだろうか。
参考資料
Wikipedia 日本の原子爆弾開発
テレビ朝日 「ザ・スクープスペシャル」
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